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鵜殿鳩翁と浪士組の歴史

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鵜殿鳩翁(うどのきゅうおう、1808年~1869年)は、幕末期の幕臣であり、目付や浪士組の取締役として活躍しました。彼の生涯は、激動の時代を背景に幕府の中枢において重要な役割を果たしながらも、数々の困難や挫折に直面した波乱万丈なものでした。今回は、鵜殿鳩翁の生い立ちから、彼がどのようにして幕末の重要人物として歴史に名を残すことになったのかを詳しく見ていきます。

生い立ちと鵜殿家への養子入り

鵜殿鳩翁は、1808年(文化5年)に熊倉家の次男として生まれました。熊倉家についてはあまり資料が残っていませんが、藤原北家秀郷流で、紀州藩士としての出自を持っていたとされています。父親は熊倉茂寛で、鵜殿家に養子に入ることが決まるまでは、熊倉家の一員として育てられました。

1817年(文化14年)、9歳のときに旗本鵜殿家の鵜殿甚左衛門長快の養子となりました。鵜殿家は、紀伊国牟婁郡鵜殿村に起源を持つ家柄で、熊野別当氏に連なる歴史ある家系です。南北朝時代には南朝側に付き、江戸時代には鳥取藩領主と旗本の2つの流れに分かれました。鳩翁が養子に入ったのは、旗本家として江戸に仕えていた鵜殿家でした。

1819年(文政2年)、鳩翁は鵜殿家の家督を相続し、鵜殿甚左衛門を名乗りました。以降、鵜殿家の当主として、江戸幕府の役人としての道を歩むことになります。

小納戸としての出発

1825年(文政8年)、鵜殿鳩翁は江戸城の小納戸役に任命されました。小納戸とは、将軍の身近で雑務を担当する役職で、11代将軍徳川家斉に仕えていました。小納戸は、将軍の側近として働きながらも、重要な業務を任される可能性があり、その職務を真面目にこなすことで昇進の道も開かれていました。

1829年(文政12年)には西丸の小納戸に転じ、将軍世子の徳川家慶に仕えることとなりました。彼は、その後も数々の職務をこなし、将軍の信任を得ることに成功します。1837年(天保8年)には本丸小納戸に戻り、徳川家慶が12代将軍となったことで、彼もそのまま家慶の側近として引き続き仕えることになりました。

この時期、鵜殿は砲術の研究にも励んでいたとされています。筒方(火器の扱いに関する職務)に配属されていた可能性があり、幕府の軍備に対する意識を強く持っていたことがうかがえます。

目付への昇進と外交問題への関与

1848年(嘉永元年)、鵜殿鳩翁は目付に任命されました。目付とは、旗本や御家人の監察、江戸城内の巡視、法令の伝達など、幕府内で非常に重要な役割を担う役職です。また、目付は幕府の政策に対して異論を唱えることができる数少ない立場でもありました。この任務に就いたことで、鵜殿は幕府の中枢に位置する人物となり、その後の外交問題にも深く関わることになります。

1853年(嘉永6年)、アメリカのマシュー・ペリー浦賀に来航すると、鵜殿は攘夷(外国との交渉拒否)を強く主張しました。しかし、その後の幕府の方針転換により、1854年嘉永7年)にペリーが再来航した際には、日米和親条約の締結に関与し、アメリ使節応対係として条約の成立に尽力しました。このように、鵜殿は攘夷派としての姿勢を持ちながらも、現実的な外交対応にも柔軟に対応していたと言えます。

幕末の動乱と安政の大獄

1858年(安政5年)には、オランダ理事官参府用掛に任命され、蘭国との条約締結の準備を進めました。同時期、将軍継嗣問題が表面化し、鵜殿は一橋派(徳川慶喜支持)として活動しましたが、井伊直弼大老に就任し、南紀派が勝利したことで彼の立場は危うくなります。

その後、安政の大獄により反対派が弾圧される中、鵜殿も駿府町奉行に左遷されました。駿府町奉行は、一見すると栄転に見えますが、実際には彼の影響力を削ぐための処置であったと言われています。

日米和親条約

剃髪と浪士組の取締役

1860年(万延元年)、鵜殿は剃髪し、「鳩翁」と号しました。この時期、彼は幕府の要職から離れた状態にありましたが、1863年文久3年)には再び表舞台に立つこととなりました。将軍徳川家茂の上洛警護のために結成された浪士組の取締役に就任し、浪士組の統率を任されました。しかし、浪士組内では清河八郎の策略や近藤勇らとの対立が激化し、鵜殿は組織の統制に苦慮しました。最終的に、同年4月には取締役を辞職しています。

晩年と静岡への移住

鵜殿鳩翁は浪士組辞職後、幕府の職務から退き、静岡に移住しました。これは、江戸幕府が倒れるまでの数年間、彼が公職に就くことを避けていたことを示しています。1869年(明治2年)6月6日、62歳でその生涯を閉じました。彼の墓所静岡市葵区の本要寺にあります。

鵜殿鳩翁の功績とその影響

鵜殿鳩翁は、幕末という時代において幕府の中枢で活躍し、外交問題や幕府内部の改革に貢献しました。特に目付としての役割は、単なる官僚的な職務にとどまらず、幕府の政策に対して異論を唱え、将軍や老中に対して影響を与えることができる立場にありました。

彼が最も大きな影響を与えたのは、日米和親条約の締結や浪士組の統率といった、幕府の存続に関わる重大な局面でした。外交においては、攘夷派としての強い姿勢を持ちながらも、幕府の方針に従って柔軟に対応し、最終的に条約を締結させた手腕は高く評価されます。

一方で、安政の大獄によって左遷されるなど、彼自身も幕末の政治的な動乱に翻弄されました。それでも、彼はその後も幕府のために尽力し続け、浪士組の取締役として組織の統率に尽力するなど、幕府への忠誠心は揺るぎませんでした。

まとめ

鵜殿鳩翁の生涯は、幕末という時代の激動の中で幕府に尽くし続けた忠義の人物として、歴史に刻まれています。外交や軍事、さらには幕府内部の改革に至るまで、彼の影響は幅広く、後世の歴史家たちにとっても重要な研究対象となっています。