近江屋事件は、1867年11月15日、坂本龍馬と中岡慎太郎、彼らの従僕である山田藤吉が京都の近江屋で暗殺された事件です。この事件は、幕末の動乱の中で日本の歴史に深い影響を与える展開を引き起こしました。実行犯については多くの説が存在しますが、特に京都見廻組の関与が有力視されています。
事件の背景
坂本龍馬は、当初薩摩藩の寺田屋を宿舎としていましたが、江戸幕府に急襲を受ける「寺田屋事件」を経て、京都の近江屋に移りました。近江屋は、土佐藩の志士たちにとって拠点とされていましたが、その際に「坂本龍馬が暗殺される」との噂も流れていました。実際、御陵衛士の伊東甲子太郎と藤堂平助が近江屋を訪れた際に「新選組と見廻組が狙っている」との警告を発しています。薩摩藩士の吉井幸輔も龍馬に用心を促しましたが、彼は近江屋に留まることを選びました。
武器を握る局面
11月14日から風邪をひいていた龍馬は、近江屋の二階に移り、12日の時点で体調を崩していました。襲撃当日、11月15日の午後5時ごろ、中岡が書店を訪れた後、夕方に近江屋に戻ります。午後7時頃、龍馬は中岡と会話をしていましたが、午後9時過ぎに軍鶏を買いに行くよう指示した客が帰ってきました。
その後、客を装った刺客が訪れ、山田藤吉がその対応に出ます。藤吉は名刺を持ち、龍馬のもとに戻ったところで斬られました。これを合図に、二人の刺客が奥の八畳間に乱入。龍馬は立ち上がるも、致命的な致傷を追うことになります。彼は刀を持とうとしましたが、抵抗する暇もなく斬られ、最終的には倒れ込んでしまいます。
実行犯の影
事件の実行犯については、見廻組の佐々木只三郎や今井信郎らが関与したとの主張が広まりました。大正元年には、見廻組に所属していた今井信郎が自白し、その後の調査で佐々木の名前が挙がるようになりました。今井は「佐々木の指示で殺害した」と証言し、他の隊士たちもこれを補強しました。特に、教えられた内容は「龍馬が寺田屋事件において同心を射殺した」とされ、その報復としての暗殺行為が行われたとも言われます。
坂本龍馬暗殺犯は誰か?様々な説
京都見廻組実行説(通説)
坂本龍馬と中岡慎太郎、山田藤吉の3人が京都河原町通蛸薬師下ルの近江屋井口新助邸で殺害された事件。実行犯については諸説あるが、京都見廻組によるものという説が有力である。元見廻組隊士・今井信郎の証言に基づく説で、佐々木只三郎らが実行犯とされています。今井の証言は時期によって変遷がありますが、大正時代以降、この説が通説として扱われるようになりました。
新選組犯行説
新選組犯行説 事件直後は有力視された説です。中岡慎太郎自身も「新選組の仕業だろう」と推測していました。しかし、新選組側は関与を否定しており、後に見廻組説が有力になるにつれて支持を失いました。
襲撃を受けた中岡自身、「之はとうしても人を散々斬つて居る新選組の者だろう」と推測している。土佐藩重役寺村左膳も当日の日記に「多分、新撰組等の業なるべしとの報知也」と記している。
紀州藩士報復説
紀州藩士報復説 「いろは丸事件」に対する紀州藩士の恨みによる犯行だとする説です。海援隊の一部がこの説を支持していました。海援隊隊士の陸奥陽之助らは「海援隊と紀州藩の間に起こり、海援隊側の勝利に終わった訴訟「いろは丸事件」に対する、紀州藩士の恨みによる犯行である」と考えていた。
薩摩藩陰謀説
薩摩藩陰謀説 西郷隆盛らの武力倒幕派による陰謀だとする説です。龍馬の穏健路線と薩摩藩の武力路線の対立が動機とされていますが、歴史的事実との矛盾も指摘されています。
西郷隆盛、大久保利通らを中心とする薩摩藩内の武力倒幕派による陰謀だとする説。松平春嶽は事件翌日、松平茂昭にあてた書状で、龍馬と中岡が暗殺されたことについて福岡孝弟と話しているうちに、政治情勢から「土藩(土佐藩)尽力ニより芋藩(薩摩藩)の姦策已に破れたる形勢ナリ」と記している。
その他の諸説
その他の諸説 中岡慎太郎が本当の標的だったとする説や、中岡が龍馬を襲ったとする説など、様々な陰謀説が存在します。
前述のように今井や渡辺の証言と現場の状況に食い違いがあるとはいえ、見廻組説における隊士の自供・談話以外に確実な史料の存在はいまだ確認されておらず、見廻組による暗殺という説が有力視されている。
現在でも、見廻組による暗殺という説が最も有力視されていますが、確実な史料が乏しいため、真相は依然として謎に包まれています。映画やテレビドラマ、小説などでは、薩摩藩陰謀説を採用することが多く、フィクションの世界で様々な解釈が展開されています。
影響と後の評価
坂本龍馬と中岡慎太郎の死は、倒幕派にとって大きな衝撃であり、彼らの死を悼む者たちからの呼びかけがあちこちで行われました。岩倉具視は「我が両腕を奪い去る」と嘆き、龍馬の理念が亡き後も息づいていたことは確かです。このように、近江屋事件は単なる個人の暗殺を超え、後の日本の歴史に大きな影響を与えた重要な出来事として今なお語り継がれています